永田 隼一 95期
ながたじゅんいち
強くなる為に喰らい続ける41歳
薩摩川内市出身の薩摩隼人
師匠
森山昌昭選手
弟子
嶋田誠也選手
No coffee,no lifeな無類のコーヒー好き
脚質
高トルクを備えた地脚タイプ
鹿児島県薩摩川内市川端病院にて約4000グラムの元気な体で永田家に生を受ける。
幼少期は父の仕事の関係で東京、埼玉、鹿児島の徳之島…etcと各地への転勤が続いた。
埼玉では西武園競輪場のすぐ近くだったらしい
小中学生の頃は書道、空手、剣道を学び剣道は剣術として捉えて打ち込み、空手とともにその腕前は自称十段。
高校は三年間バレーボール部で過ごし、大学は福岡大学に進学しスピードスケートのショートトラックに挑戦、高い運動能力で順応し2003年冬季国体ショートトラック5000mリレーで第5位になるなど活躍した。
大学卒業後は、イラク戦争で世界の緊張が高まる中、高い志を持って自衛隊に入隊し3年半の間あらゆる任務に当たった。
そんなおり隊の仲間から競輪選手という職業があるということを知らされ、自らの肉体の可能性に挑戦すべく受験を決意した。
適性試験にて受験したが一度目は固定式自転車(エルゴメーター)の走行能力測定の前に撃沈してしまったが、競輪を教えてくれた隊の仲間から福岡で自転車ショップを営み自転車の普及活動を精力的に行なっていた西丸房雄氏35期を紹介され、自転車の乗り方などを教わりトレーニングを頑張った結果二度目の95期生に合格した。
その後すぐに、西丸氏から森山昌昭選手を師匠として紹介されその下で競輪選手としてのトレーニングを開始することになった。
森山選手との練習は朝から晩までマンツーマンで、これまで味わったどんなトレーニングや修羅場よりも過酷だったという。
しかし師匠の森山選手も同じメニューをこなしているため必死に食らい付いて頑張り、三ヶ月あまりで技能試験でも悠々に合格できる1分09秒という好タイムを叩き出せるほどに成長した。
そして、デビューしてからもそのトレーニングを続け先行選手としてS級でも大活躍。
現在は親交のある不動會の面々と弟子の嶋田誠也とともに街道でバンクでと乗り込みもがき
まくっており、一つでも上で戦いたいという気持ちを胸に日々を練習に明け暮れ、反撃を狙ってレースに臨んでいる。
そんな がったん(愛称)の代名詞といえば世紀末に備えて高校時代から続けているという高負荷でのウエイトトレーニングで、範馬勇次郎のようなボディーを作り上げており、レッグプレスマシンに至ってはメディアドームのトレーニング場にあるおもり(プレート)全て使っても負荷が足りない負荷欲しさんに成長している。
このパワーがハマった時は凄まじいスピードを叩き出すので
『力みなくして解放のカタルシスはありえねぇ…』
範馬勇次郎の言葉がぴったりだ。
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